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千年一日珈琲焙煎所は茨城県つくば市にあります。自家焙煎の珈琲豆と喫茶、けん玉、本。ときどき展示、ライブ、フィーリングカップル。生活と街角の風景。

〒305-0005 つくば市天久保3-21-3 星谷ビルF・G(行き方)tel 029-875-5092
火・水曜定休 11:00-19:00(sun18:00)

六月のイベント

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6/11(土)LIVE「おおはた雄一と、Boojilの夜」
           “FOR GET ME NOT”~心やすらぐ音楽と絵の宴 2011~
     open:18:00/start:19:00  料金3000円(+1drink order)

6/12(日)『おかっぱちゃん旅に出る』上映会&ワークショップ
        17:00 open    
        17:30-トークショー・ワークショップ
        19:00-『おかっぱちゃん旅に出る』上映開始 (80分)
       料金:1000円(+drink order) PEOPLE企画

6/17(金)読書会 vol.5『これからの「正義」の話をしよう』 マイケル・サンデル      第9章 たがいに負うものは何か?ー忠誠のジレンマ  19時ごろより 参加無料

 この章で考えさせられたことは、中立であろうとする態度が果たしていいのだろうか、ということ。自分とは異なる他者に出会ったとき「いろんな人がいるから」と納得して済ませる態度は、相手の自由を尊重しているように見えて、実のところ人と人とが深く関わり合うことの障害になっているのでは、とこれまでの自分に疑問を持った章でした。毎回、好きなことを言わせてもらってる読書会です。
                   
6/27(月)しょぼくれじじいじゃあいられねー うたとおはなし(企画:須田帆布      19時半ヨリ、入場無料
 5月は須田さんと植田くんの対談で、盛りあがったようでした。
 6月の詳細はのちほど。


   それぞれのお問い合わせ:千年一日珈琲焙煎所
       1001coffee@gmail.comまたは029-875-5092まで

タグ:イベント

ピーポーの巻

ピーポーピーポーの赤い点滅ランプを追って、たどりついた夜中の救急外来。

風呂に入って寝る支度をしていたところに、家の電話が執拗に鳴るので出ることにした。
千年一日の店から「おおつぼさんが具合悪い」との連絡。
寒がっているらしいので上着と湯たんぽを持って出た。
店の前には救急車が止まっていて、おおげさな音が鳴っていた。
事態が分からないまま、病院が決まり次第出発と言われたので、後ろから車でついていった。

待合室で待たされてすごく眠かった。
付き添ってくれた方が、119までの経過を話してくれたがよく分からないと思った。
過労だよなーと近頃をふりかえって思うくらいだった。まぶたが重かった。

40分くらいしてやっと、車椅子に乗ったおおつぼさんが看護師さんと一緒にでてきた。
レントゲン室に押されていくおおつぼさんがピースするので可笑しかった。普段絶対しないのに。

検査結果が出るまでの間、おおつぼさんはよくしゃべっていて、自分に何が起きたのか一生懸命考えてるみたいだった。症状のこととか、ALSの患者ですねと病院の人が誤解してた話や、自分がなるならギラン・バレーがいいとか、まあいろいろ。そんな話になってくると、思ったより深刻なんかなあと眠気を忘れた。検査結果みんと分からんと思ったけど、自分がなったらやっぱり心の準備しとくよなと思った。

長く待ったような気がした後に、医者に呼ばれて話を一緒に聞いたら、そんなに異常なことが起きてるわけではないらしいと分かった。カリウムの値が少し気になるとかで後日再検査を言い渡され、しぶしぶ予約入れていたけれど。

家でごはん食べたら落ち着いたと言った。
早く休んでねという声も聞かず(あきらめてるほど言うこときかない)インターネットで調べたりなんだりしてたみたいで、朝は「最近では気持ちよく起きれた」とあいさつされた。

今日も11時から営業。体調みながら終わりの時間を決めるのだと思っています。
昨夜心配してくれた方々、どうしようもなくこんな感じですので(気長さを)よろしくお願いいたします。

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今日はしょぼくれずに行こう

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 須田さんは、千年一日珈琲焙煎所をずっと応援してくれているありがたい人です。歩いて来れる距離ということもあって、須田帆布のお客さんが手書きの地図を片手に珈琲を飲みに来てくれることもあります。もちろん須田帆布のかばん下げて。

 須田さんにはじめてお会いしたときは重量のある佇まいに緊張しましたが、大坪さんと話す姿や私に対するまなざしがずっとあたたかく、私にとって須田さんはつくばにいることを心強くしてくれる存在です。喜美枝さん、娘の雅代さん夫婦も温度のある方たちです。

 この企画では一曲歌うそうです。歌をうたう須田さんはチャーミングです。話好きで意外と照れ屋で、何よりからだが嘘つけない方なので、ぜひ植田くんとの対談を楽しみに来て下さい。

 植田くんって人については「衝突、植田くん」に書いています。

5/23(月)「須田帆布 しょぼくれじじいじゃあいられねー うたとおはなし」
      19時半ヨリ、入場無料


タグ:須田帆布

息を凝らして

息を潜めて見つめる
芽吹く一瞬を目の前に
息を呑む瞬間
一こまの残像が予感させた
生命のはじまり
みずみずしくやわらかな
青く透明な輝き

精妙にとらえた いのちの神秘を
こま送りをみるように聴いた
大宮くんと南くんのデュオ


抗えない、桜井さんと西脇さんの演奏

胸の底に特別な重力がかかったみたいに
息が詰まるほど苦しくて
苦しいほどに愛しい
こんな切ないところにある
独特の居心地よさが不思議だと思う

最後の曲「batak hymn」のあいだ
なんとなくこのまま息がとまって
意識が途切れてもそんなもんだと思った。
私の終わりの前後を普段着のまま横断してしまえる気がした。


すべての演奏が終わって、立ちあがるのを忘れて
からだに全体の流れが作用しているとき
一つになって循環していく生命の
あまりあるシーンの豊かさに苦しくなるほどだった。

痛みの果てから

体のまんなかがじくじくと言う
どうしようもないと
わかっていること
あなたからの便りはなく
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あなたの立っている場所まで
いまは行くことはできない
届かないかもしれない、だけど
笑ってこの次会いたいし
その次も会いたいから
ともに包まれる物語を探しにいく

私の失敗といいわけを
並べては通りこし
目を閉じたまま座りこむ
混沌とした音をかきわけて

しんとした痛みにたどり着いたとき
私はえぐられたまま
眺めるように耳を澄ませた
重たい暗雲
その背に潜む
透きとおった振動

その響きは
不快としての痛みを超えて
尊さの証としての姿を見せる
もしこの痛みがなければ
尊さも感じることはできないのだと知った

私は変わっていける
また必ず会いにいく

たとえばそういうとき私は「far home」のCDをかける。

あなたのまぶしさ

どうか
あなたの重心が
ふとしたはずみで
こちらに向いてくれたなら

魔力に
吸い寄せられるように
暗闇をのぞきこんでるあなたに
事実を伝えたい

あなたの背には
光があることを
あなた以外の目にはうつる
輝きがあることを

喜ばせるためではなく
励ますためでもなく
ただもどかしさに耐えられなくて
わたしは伝えるのです。

201105180533000.jpgどうか
あなたが重心を
こちらに踏み出す心なら
信じたものを離さないで

わからなくなるたび
あなたは会いにいけばいい

目を細めるように
あなたを眺める あのひとの
瞳の奥に触れるように

あなたの背を知る者は
あなたが気づかないときでさえ
ふりむくのを待ち続けてる
祈るような気持ちで果てしなく
確信をもって

信じられること (と…)

桜井さんと西脇さんの音楽が静かに迫ってくる。

ここでは普段から二人の音楽が流れる。

葉が枯れ 散っていく様を
目のあたりにしたとき
ふっとやってくる その感情

鼓膜を触った振動から
そっと意味をすくってみる

深い静けさの かなしみのほとり
わずかばかりの ともしびのために
痛みも感情も 透明にかえて存在する
ただあるように。

優しさとは
まるでなにもないかのような静けさのなか
それでも、それだから
見つけてしまうものだ。

千年一日の場に、よければ21日の夜、訪ねてください。
信じてもらっていいです。


ひとつだけ信じてはいけないことがあります。
フライヤーに書かれた店のメールアドレス、
「.coma 」となっていますが、まちがいです。
正しいアドレスは、1001coffee@gmail.comです。
ごめんなさい。

「フツウでごめんなさい。」

 フツウの人たちの  フツウの人たちによる  フツウの人たちのための  集まり。  フツウでごめんなさい。

 おおつぼさんが作ったフライヤーの文面です。私はこの文の響きが好きです。おおつぼさんという人の響きはこんな感じなのです。

 私はおおつぼさんがとても「普通」だとは思いません。「フツウ」に生きてきて、ふつうに「普通」の外側にいるような人だと思っています。


 「普通」ということがこの世のなかで、どれほど人の苦しみを産んできたのかわかりません。人の話を聴いていても、今の社会で「普通」の枠からはみ出ることへの恐怖がいかに大きいか身につまされます。その恐怖と比べたら、すでにレールの外にいて、その現実を生きていくほかないと腹をくくっている人のほうが(たとえ経済的には貧しいほうだとしても)生きていく底力のような豊かさを見えるところで持っていることがたくさんあります。私はどれほどこの豊かさに救われてきたかわかりません。


 私は自分が産まれてきたときから肌で「普通」の圧力を感じ、おおげさに言えばそれと戦ってきました。見えない敵に押しつぶされないよう反抗してきました。感情を適切なことばで表現するすべがない子どものころは特に必死でした。学校の先生が「常識」をふりかざしてモノを言えば、ワンワン吠えずにはいられなかった。そのおかげかなんだか、私のきかんぼう気質はすくすくと育ち、両親にはとても苦労をかけました。

 これは大人になってからわかったことですが、私の親や家族は幸いにも「普通」からズレた人間のあり方に寛容でした。親と戦っていたころは全く気づきませんでしたが、両親には私の「フツウ」をおもしろがってくれるところがありました。ちょっと変わってるくらいが喜ばれるという感じでした。

 その代わり「普通」が敷かれた社会に一人で出たときにはそれなりのショックを受けました。
私のと社会の常識とのあいだには漠然とした、それでいて決定的な隔たりがあることをはじめて知りました。環境との折り合いのなかで「普通」のすじを幾分か学びました。だけど身につけられるのは表面上で、私の根底ではいまだにその隔たりは隔たりのままなのです。常識を知らない、と言われ憤慨したこともありますが、でも私にはどうしてもそれが埋められないものとして横たわっている。私のどうしようもなさがここにはあって、好きになった人たちをおびやかしてしまうのでは、というかなしみやこわさが付随している。好きな人をおびやかすことはできることなら避けたい、と、でももし受け入れてくれたならうれしい、とのあいだで私はゆらゆらと揺れながら、ときどき賭けをする。

 自分を含め誰かに「普通」を求めることができないのは、私のよさとしても、弱さとしても出てくるのだけれど、私のために誰かのためになるような出口を探していきたい。
 
 相手の「フツウ」に関わらずして、私の「フツウ」を無意識に求めてしまうことに気づきたい。

 保育園か低学年のころ、一度だけ「ふつうそれはしないでしょ」と友達の言動を意図的に非難したことがあって(ほんとは私もしていたのに)、その記憶がずっと私に訴えている。

暗闇の奥


道路沿いのコンクリートのうえを、二体のアリが這っていた。
黒いアリがくっついている。
濃淡、大きさがそれぞれ異なる二匹だった。

知識がない私は、はじめ交尾(そんなものはあったか?)か、大きいやつが小さい方のおしりを噛んでいるのか、と思い興味を惹かれた。

どちらかが動いてないと分かった。
どちらかが死体を運んでいるらしかった。
どちらだろうと気になって手のひらに這わせ、顔を近づけた。

モノになってしまっているのは色の濃い大きい方のアリだった。
もとの地点に返し、うろつく軌跡がどこに向かうのか注目していると、側溝の隙間あたりにどうも何かあるらしい。巣にもぐりこんでいく姿を見たら終わりにしようと思った。

小さなアリと死体がいよいよ溝に近づいた、とそのとき、 え  一瞬のできごとだった。
暗黒の奥から、影が近づき死体を奪った、あるいは、、渡したの?
私の目の端にうつった影は、茶色に見えた気がした、敵だったんだろうか、味方であってほしいと思った。

一匹になってしまった小さなアリは周囲を逡巡した。私の動揺もその軌跡を追った。

そのうち、アリはその溝に近づいた
そして暗闇に向かってそのままのスピードで身を投じた。落ちたのだ。

暗闇の奥には戻る場所がある、と知りたかった。他のアリたちもまた、同じように落ちるという方法で帰っていくと知りたかった。

周囲のアリたちが同じ暗闇に戻る様子を見てから行こう、と
しゃがんだままいたのだけれど、時間がなくなってしまった。

アリのことなどほとんど気にしたことがなかったのに、
今朝、自分が動揺してしまったのは、一度、手に触れたからなのか。わからないのだけれど。


そろそろ、お店にいかなくちゃ。

五月のイベント

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5月20日(金)読書会 vol.4『これからの「正義」の話をしよう』 マイケル・サンデル          第8章 誰が何に値するか?──アリストテレス
       いよいよ、サンデル先生の主張の核心に迫っていきます。
       この本がきっかけで、アリストテレスの著作をはじめて手にとりました。
       アリストテレスの「ニコマコス倫理学」はすごいなと思う。
       人としてのあり方にごまかしがきかなくなる。


5月21日(土)LIVE 桜井芳樹・西脇一弘  19:00 open / 19:30 start            19:30〜 omiya asahiko(gustave coquiot) + minami hideaki
                  前売り ¥2,000 当日 ¥2,500
       桜井さんと西脇さんのギターデュオ。
       聴いたあとに、さざなみのように残りつづける音楽です。
       大宮くんと南くんの組み合わせでの演奏も楽しみにしています。
       ■ご予約・お問い合わせ 
         tel:029-875-5092 mail:1001coffee@gmail.com
        

5月23日(月) しょぼくれじじいじゃあいられねー うたとおはなし(企画 須田帆布)        お店を閉めた後に、ちょっと変わった集いが開かれるようです。
       須田帆布の須田さんとその日のゲストが繰りなす時間。
       私には参加するみんなの笑みが想像できる気がします。
タグ:イベント

濡れ続ける距離まで

朝、傘を持ちそこねてしまった私は
帰り際、雨にあたることになっていた。

思った以上の降り方に出口でぐずぐずしていたそのときに
「よかったら一緒に」と声をかけられた。

たくさんの本を手に下げた女の子は
一人でもはみ出しそうな折りたたみの傘をさしていた。
当然いちどは首を振った。
でも結局、好意に甘え、
今日初めて会った名も知らない女の子の、小さな水色の傘に入りこんだ。

せめて、と傘を持たせてもらったけれど、これでいいのかよくわからなかった。
同じ方向だとは言ったけれど、私のためについてくれた嘘だったかもしれなかった。

ひとつの傘のしたで、私たちはなんとなく話しはじめた。

尋ねたら大学四年生だと教えてくれた。
間近に迫ったその顔はかわいらしく魅力のある顔立ちだった。
互いに少しずつ話をしたあと彼女は、それまでやっていた就活も震災のあと気持ちがすっかり落ちてしまい、いま自分がほんとは何をしたいのか見直すところに立たされているのだ、と言った。震災のせい? と聞くと、四年間ずっと「もやもやしたもの」があったのだと、震災をきっかけにそれが出てきたんだとつっかえるように話してくれた。

靴がしみてきて、その子の白いスニーカーも濡れてないか気になった。
駅までしばらく距離があった。
私たちが濡れ続ける距離だった。

もやもやしたものなんだろうね、と私は思ったまま口にした。
その子は言いにくそうに「『必然性』を探しているんです。」と言った。

もやもやしたもの、それと必然性、の問題。

思考が一瞬止まり、私は俄然興味を覚えた。
つながりを見出すためのいくつかの質問をした。
私の理解したところによれば、自分がもやもやする原因は自分の置かれた環境に端を発しているはずだと彼女は考えていて、そのどうしようもないもの(必然性)は何なのかを突きとめたいと切望していた。具体的なエピソードはまるでわからないので、どういう状況に置かれているのか想像しがたいのだけれど、私がその場所にいたらやっぱりもやもやしそうだと思った。

私の大学五年間も大概、もやもやしたものであったし、もっと言えば中学からもやもやが消えたことはなかった。それが一瞬でも晴れたと思えるようになったのは、卒業してほにゃらで働くようになってからだし、なぜ晴れたかと言えば自分のやっていることが自分の方向性に一致している感覚を得られたからだ。

そんなことを話していたら千歳烏山駅に着いていた。
お礼を伝えて別れ、濡れた足もとを感じながら
今日自分が傘を忘れたのは必然と言えるのかどうか、ふとよぎった。

ラブレター

心を澄まして
ものごとをみる目を静かなみずうみに置いて
水面を揺らさぬように眺めていたい。
そうして眺めたさきに 立ちあらわれるあなたの姿を
ただあるがままに受けとめていたい。
欲をだして 壊さずにいられるなら
あなたのまなざしを
やわらかな陽射しのように感じていたい。

思い出せなくなるその前に

長谷川さん よかったです。

思考をはじめると この感覚を壊してしまいそうで
よかった、ってことだけを口にして
あとはそのままを自分に保存して眠ってしまいたいと思った。

でも、この感覚をできるだけ感じたまま、
そっとそれを目の前に置いてみてもいい気もした。
思い出せなくなるそのまえに。

長谷川さんが発したもので
私が今日聴いたのは潔癖なほどのラブソングだった。
愛するところにある 愛したい と 愛されたい が
強い祈りになったり、固い誓いに変わりながら
うねるように響くのだった。
感染されたかのように 中に入っていた。

言葉のための歌ではなく、仕方がないがゆえの歌だった。
手にあまるものを、おさめきれないと知りながら選んでいる気がした。
歌が終わると、私の手はびりびりと小さくしびれていた。
しびれたままがいいなと思った。