So-net無料ブログ作成
検索選択

千年一日珈琲焙煎所は茨城県つくば市にあります。自家焙煎の珈琲豆と喫茶、けん玉、本。ときどき展示、ライブ、フィーリングカップル。生活と街角の風景。

〒305-0005 つくば市天久保3-21-3 星谷ビルF・G(行き方)tel 029-875-5092
火・水曜定休 11:00-19:00(sun18:00)

101歳の大逆転・すき焼き編

 わたしがパソコンに向かってこれを書いていると、きんぴら編の写真を覗いて「このおばあさん誰や。」すぐに「あぁ、おばばや。」と気づき「いいおばあさんやねぇ。」と自分を褒めました。

わたしが黙っていると「自分のことを悪くいうようではいけません。」としたり顔です。自画自賛をするようになっては、いよいよ調子が出てきている証拠です。自画自賛は浅野家に代々伝わる秘伝のたれのようなもので、孫の代まで引き継がれています。
特徴としては、1. 聞かせる相手は身内にかぎる(人様の前ではめっそうもない)2. 「聞いて。すごいげんよ」からはじまる話の9割は自分のこと 3. 何で自画自賛するかというと「だって誰もそんなこと言うてくれんよ」「いいがいね、自分で言うとりゃ世話ない」から。

家族内文化、家族用語というのはあまりに自分に浸透しすぎていておそろしいものです。それ浅野家だけやよ、と指摘されるまで(指摘されてもすぐには信じられない)気づかないからです。

IMG_0390.JPG
まだかまだかと待ちかまえるおばば
IMG_yaki.JPG
待ちきれずに蓋を開ける


「ごちそうやねえ」と今夜もうれしそうに食べ始めたばあちゃん。

父と母とわたしは、
おかずあげすぎじゃないか、食べ過ぎになるぞ、また気持ち悪くならんか、と心配になっては、おかずの減量を試みるも、「大丈夫。」と揺るぎない自信ではね返すおばあさん。ばあちゃんの分として一回出してしまったものを、無理にとりあげることはできません。恨まれるからです。黙ってにらまれた側は自分が悪いことをしたかのような気分になります。手をこまねくだけこまねいて、もうしゃあないわ、吐いてもしゃあないわ、と折れていくご家族でした。

そのあとおばばはすやすやと眠りにつきました。

無力さを突き放す

もしもし もしもし わたしです
ここにいないわたしです

水のなかで
呼んでいるのは わたしです

ことばということばが
透き通るように 消えていくのは

ことばが わたしたちを見捨てたからだ
風が哀しみを奪ったからだ

・・
      
佐々木幹郎「明日」より


image.jpg

12月13日に、つくばでひとつ大きなイベントがあります。(

この、3.11を語れるのかどうか、という現場にわたしも参加しようと決めています。
正直言うと、3.11とそれ以後の収拾のつかない事態に対し、わたしはおよび腰になっています。もう少し前のほうが、原発や被爆や放射能や心配や混乱に対して、日常意識で人と話していました。それがここ最近になって、自分が閉ざしている、と感じるのです。放射能に関することを誰かに言うときに緊張があったり、震災シーンから「あまちゃん」を観なくなっていることに気づいたり、そんなことです。日常の舞台からは見えない水面下へ、それらのことをとどめておきたい力が働いているようです。

海水への流出が止まらないという報道を受け止めきれずに、だからと言って誰かに話そうというきっかけもなく、ただ出口のない重たさが自分の内にあります。それらを語るのに、いまさら はないはずだけど、いまさら という気分もあるのです。いまさら のあとに何が続くのか、そういうことをちょっとまともに感じることを避けています。

 そんななか、佐々木幹郎さんの「明日」という詩を読んだとき、自分のなかの3.11の鉛色がふっと軽さを帯びるリズムがあって、もしかしたら と思いました。無力さを知りながら、無力さを突き放す「明日」があるのかもしれないとそのとき思ったのです。

image.jpg
読書会:11月30日(土)19:00ー21:00
テキスト「明日」*第20回萩原朔太郎賞(2012年)を受賞作品
参加費:500円(コーヒー付)
会場:千年一日珈琲焙煎所

101歳の大逆転・きんぴら編

IMG_itame.JPG
101歳のきんぴら料理


 2ヶ月前に腸を切る大手術をした祖母と余生を過ごすため、今わたしは金沢です。だいたい10日間金沢、2週間つくば、というペースで行き来しています。今回の帰省で感じるのは、祖母も周囲の家族もこの状況に慣れてきて、全体的に落ち着いた雰囲気で過ごせているということです。はじめてだらけだったことが日常になじむにつれ、101歳の祖母(以下、おばば)にも余裕が出てきています。
IMG_nimjim.JPG
最近何もしないでいることに飽きてきたおばば「なにかやることないか?」と聞いてくる


 物忘れは激しいけど認知面はわりとしっかりしていて、身内以外のお客さんに対しては見事な猫かぶりを見せます。ただ、おなかがすいてくると、猫かぶりが薄っぺらくなり、本性がだだもれます。父に来客があったとき、おばばはわたしに向かって「これとかぼちゃとポテトと全部食べたいけど(客がいる間は)食べんうぇ」とつまみ食い自制宣言をしました。なけなしのかっこつけです。わたしとおばばの共通点は食べることに抑制がききづらいことです。宣言したその瞬間だけ我慢したのでしょう、言い終えて間もなく口に何か入れていました。ばあちゃんというのは瞬間を生きる生き物なのです。

 わたしがお客さんにスイートポテトをお皿ごと出すと、おばばは「なんで全部やってしもうんや」とおおげさな表情でわたしに不満を見せました。自分の分がなくなるのが心配だからです。心の声がでかすぎて、わたしは一度おばばの口をつまみました。

 リスクが大きい手術に踏み切ったのは、最後まで食べさせてやりたい、と父と医者が話し合って決断したことだけど、ばあちゃんがまさかここまで食べるようになるとは誰も思っていませんでした。よかったを通りこして食べ過ぎを心配することになるとは。目のとまらんところに食べ物を置くようにして家族は気をつかっています。それでも目ざとい視線をかわしきれているとは言えないでしょう。
IMG_kimpira.JPG
親子/ ごぼうを切る奥で、珈琲を淹れる父


 もともと食べるのが好きな人でした。けど101歳。死にかけたことへの反動か、生きんといかんっていう本能が強くなったのか、病院の食事制限がきつすぎたのか、退院して解放されたのか、理由はよくわかりませんが、食べることへの執着が並々ならん今日この頃です。早く食べたいのに「まだ」のとき、もっと甘いもの食べたいのに「もう終わり」のときは、おおいに不満顔です。

 いまも隣におばばがいます。ベッドで休んでますが目は開いています。時計をにらんで「ごはんはまだやね。」とわたしに聞いてきます。ごはんを待ちかまえているのです。「頭ん中ごはんのことばっかりやがいね!」とわたしが突っ込むと「えへへ」と笑います。きっとまたすぐに尋ねてくるでしょう。わたしは何度目かの、まだや、を言うでしょう。一時間後には、テーブルに並んだごはんを見て「あらぁあ うれしい」とほやほやの顔を見せるでしょう。

思いがけず秋の吟行@上野

201311251439000.jpg

きょうは金沢に帰る日でした。
上野駅に着くと、強風のため北陸方面に向かう列車が止まっていると知らされました。
2時間くらいたったころには動くだろうと思い、美術館ででも時間をつぶそうと改札を出て公園へ向かいました。公園に入ると、はっと息を飲みました。それはそれは美しい黄金の木があったからです。誰もが立ち止まり目を輝かせました。わたしもまた、色に吸いこまれて、イチョウの舞い散る光景の一部になりました。同じ場所に、犬連れの西郷さんがでんと立っていました。思いがけなかった。

公園のなかを適当に歩いて、美術館らしい建物に寄るたび、どの入り口の前でも 本日休室 と書かれていました。考えてみたら月曜だからお休みなのです。リュックを背負って歩きながら、大きな木に目を見張ったり、風に飛ばされる葉を眺めたり、一面の落ち葉を踏みながら、こんなふうに上野の公園を歩いたことがなかったから、初めて美しい場所だと思いました。そして秋のこの風景には、寄り添って歩く男女がいい感じに見えました。

情緒ある古い店内に、おじいさんが一人座っている姿が見えました。そのおじいさんはガラス張りの窓から外の景色を眺めお茶を飲んでるようでした。惹かれるものがあって、わたしもそこで休憩することにしました。あ、おいしそう、とおじいさんが食べているものに目を奪われ、同じものを、と注文しました。おじいさんから一人分空けた並びの席に腰掛けました。荷物をおろし、あたたかい室内の空気に身体が緩むのがわかりました。箸休めの佃煮が添えられた、そこのクリームあんみつは完璧なものでした。そろり、そろりと時間をかけて食べるおじいさんは、ときどき手をこすりました。寒いのかなと思ってちらと見ると、左手に麻痺があるようでした。わたしもそろりと食べては外を眺めました。韻松亭という公園内のお店でした。


上野駅に戻って切符を渡した駅員さんに「今日は北陸方面には行けません」と告げられ、わたしはどうしたらいいか分からなくなり、出された切符を受け取れずに立ち尽くしていました。同情のある声で、ちょっと考えてみて、と切符を返され、しばらくそこで行き先を思い悩むことにしました。30分くらいしたら、つくばに帰る気になり常磐線に向かいました。帰りの電車で、きょうの上野散策をふりかえり、指折り一句つくりました。

黄金の 散る葉に西郷 仰ぎ見る つくば市/浅野郁子

せっかくだから秋の吟行に応募しようと思います。

梅原貴久が野良放つ

R0013636.JPG
ライブ後の梅原貴久さんと

はじめて茨城に来て、一人で演るのは久しぶりだと言って
梅原さんはとても緊張されていました。
隠しようのないぎこちなさで機材を準備していました。
わたしは猫を抱えながら好ましく眺めていました。

暗くなった室内で
ギター抱えた梅原さんが対峙して
最初の音を出そうとするときは
しぼりだしているみたいだった。
わたしはその姿が貴重なものに見えた。
緊張、手の震え、躊躇、が入り混じった音が聴こえて、それがはじまりだった。

普段なら排除したいと感じる雑音が違って聞こえた。
外を走る車の音も、人の声も、音楽と同じように心地よかった。
結局わたしは自分が思った以上に音楽に没入してしまっていた。
60分とおしの演奏が「終わりです」と告げられ、場があかるくされても、
わたしは終われないでいた。
場の音が終わっても、まだわたしの腹の底はうごめき鳴っていた。
長い間、深い穴の中にいたようだった。
ふいに地上に放り出された
滑稽なモグラのように
わたしは終わりを決められずにいた。


ワンサイドの出来事と並行して
アナザーサイドがあったことを書くならば
この写真に象徴されているようなことです。

「ドSじゃないですか」とわたしが梅原さんに言われたとき
わたしが納得したのは、駅で初対面の待ち合わせをし、車に乗りこんでまもなくの何でもない会話のときからすでに兆候があったからです。わたしのなかで普段眠っている野良犬が飛び出ました。1対1になった隙に、ふいにピシャっと梅原さんに向かって言い放つのです。普段はそういうの出てこないし、はじめて会った人にはまずないことだったから、自分でも虚をつかれる思いでした。この写真のように、一番はじめのジャブから梅原さんは自然な感じで受けとめてくれました。受けとめてくれました、と書くとなんか違う気がするのは、梅原さんもまんざらではないと思うからです。イキイキとする感触があるからです。
それにしても、わたしの野良が自由でいられる場所がまだあるんだと知ってうれしかった。懐かしくて愉快だった。


ちなみにドSだと言われたのは
「梅原さんが緊張して動揺しているときの音がとてもよかった。テンパり続ける演奏をメインで聴いてみたい」と感想を伝えたときのことです。

オリジナル缶できました

IMG_0292.JPG
千年一日珈琲焙煎所のオリジナル缶がつくられました。主に珈琲豆を入れてください。

IMG_0299.JPG
茶缶というものにおいて最もチャーミングなのは “つまみ”だと思います。上の蓋を外したときだけ現れます。中ぶたの突起は茶缶のアイデンティティです。

IMG_0282.JPG
缶のイラストは handpoint. さん。セクシー系からかっこいいのから、こんなかわいいやつまで、 handpoint.さんはいつも頼んだ側の想像を超える完成度で仕上げてきます。少年っぽいまなざしで直視するのがまぶしい、並々ならぬ集中力のひとです。

千年一日珈琲焙煎所で手に入ります。豆と一緒に買うと幾分安くなります。

河崎純さんの結果

河崎さんに会って、そのことが書けません。
得たものを残したいと思いながら
とうとう断片だけになってしまった。

「可能性」河崎さんは可能性を見る目がある。わたしは可能性の見方を忘れていました。
「濃密な終息」一音が消えるまでの時間が濃密だった。心が澄まされていった。
「伝わらないことを前提に」表現するときも、そうでないときも、他者を他者のままにしておく態度。分かち合えなさ、無力さを思い知ったまま。それでもの可能性。

きっとわたしの身体に残していくことなんだと思う。
まだ自分の言葉になっていないのだと思う。
あるいは言葉にして外に置いておくことが許されないことなんだと思う。
それをわたしは生きて価値にしたいと思っている。

どこでもドアで

会いたかった、と会った瞬間思って
流れはじめた思いの出口は見つけられずに時間だけが過ぎていく。
そこにある思いの太さに比例して
言葉が二の足を踏むかのように出てこなくなるのはどうしてやろ、と思います。
目の細かい網が、自分の胸のあたりで内向きに仕掛けられているのか、そのせいで言葉らしいものが一網打尽に回収されているのか、ちっとも声になりたがらない。

圧倒的に感じるということは
飽和状態になることだ。
そこに言葉はみあたらなくなる。

そんなとき
たとえば話しかけられたとして、
答えている自分の言葉が浮いて聞こえる。なんか不自然な気がする。
感じている次元と言葉がずれているせいで生じる発声の不調和。
感じることと発することは同時にはできない、とそのたび知らされる。

こどもだったら(まわりの大人の期待があっても)反応せずに黙りつづけていると思う。感じていることに自ら見切りをつけるようなことはできなかったし、思いつかなかったんじゃないかな。

でもいまはおとなで、言葉社会を生きている。
話しかけられたらそれなりに好意的な対応ができるくらいの適応を自分にしいている。
実際は、先に思いを募らせていた相手ほど言葉を交わすまでにためらって、ときどき挨拶でさえあやしくて、あとから心残りになってます。言葉残りっていうんかもしれん。

ほんとは言葉をこえて相手に通じる出口があればいいなと思います。
たとえば思いだけを通す、どこでもドアみたいなもの。
ちょっと信じとるけどね。

その自由のために河崎純

libertad.jpg

2013/11/10(日)河崎純(contrabass)即興ライブ「新しい自由の空間のために」

今週末、千年一日珈琲焙煎所ではじめてのライブがあります。
その産声を聴くために、わたしはつくばに帰ります。

じつは、河崎純さんの音は聴いたことがあります。
でも今回この企画の意図するところは、音楽だけでもなさそうなのです。
おおつぼさんの重力がゴゴゴと底の方でずれて、うねっているからです。

「このイベントをやる意味、わかる?」とおおつぼさんに聞かれました。
「わからない。」とわたしは答えました。
わからないと答えた途端に、済まない気持ちになりました。
どうしてわたしが済まないと感じるのかわかりませんでした。

「じゃあ、河崎さんの音楽はどこに存在したらいいの?」とまた聞かれました。
わたしは黙っていました。なんでか理不尽な気がしました。

 3人を呼んで、3つの音の場をつくるのは、 ”千年一日珈琲焙煎所”という場をわかりやすく説明するためだそうです。タイトルも直球だと言います。飲み込みきれないわたしは頭をまわしました。こういうことなのかなって。

  千年一日をやっている目的= 新しい自由の空間のため
    「新しい自由の空間」= ex. 河崎純さんの音楽が存在できる場

             
 考えてみると ”新しい自由の空間のために" というこころざしは ”おおつぼしげと” に直結している。(新しい自由)が立ちあがる場を常に図っているのが、おおつぼしげとという状態だ。千年一日珈琲焙煎所という場をつくり、こわし、つくり続けているのは(わたしたちの自由)という瞬間を成立させるための闘いだ。揺らぎながら揺るぎなく、潔癖なまでの価値観で挑んでいる。
 
 それに対してわたしは巻きこまれているように感じる。わたしが済まない、という気持ちになるのはそこだと思う。隣で、同じ闘志を燃やすことができないわたしの現実がそう感じさせるのだと思う。

 かつてのわたしにとってはこんな体験だった。思い出せない感触。

  “コントラバスは存在感のある楽器で、河崎さんが演奏していると二人に見えた。彼らの音は何かをとらえようとした。身をゆだねていて、突然はげしくされてちょっとだけこわいときもあった。詩になったり、物語になったり、音そのものになったりした。  演奏の合間に河崎さんが発する言葉は、ぽつぽつとして素朴だった。でも、伝わってくる。河崎さんは自分自身を生きぬこうとする人だ。まじめに、実直に、どうしようもなく。  私は信頼する。自分が自分であることのどうしようもなさを知っていて、それでも現実を生きようとする人のことを。そのために誠実に迷う人のことを。”
「夜の詩、そして」2009年5月17日
 

2013/11/10(日)河崎純(contrabass)即興ライブ「新しい自由の空間のために」
            時間: 18:00より/ 料金 :1000円
            会場: 千年一日珈琲焙煎所
              〒305-0005 つくば市天久保3-21-3 星谷ビルF・G
                             tel 029-875-5092

台所に黄泉がえり

IMG_0310.JPG
柿の皮むき(わたしと干し柿づくり/柿は父の幼なじみの寺の木から取ってきた)

金沢に帰ってきています。
ばあちゃんもあの世に行かず還ってきたので、また一緒に過ごしています。
台所仕事をいっしょにできてうれしかったので、写真を撮りました。

IMG_0241-1.JPG
里芋の皮むき(ポトフ作りの補助)

IMG_0268 -1.JPG
くるみの実とり
(妹と胡桃割り/鬼胡桃は父が山で拾って貯めておいてくれたもの)


 わたしや妹が料理をしていると「ちょっと見せてたい」と、ばあちゃんはのぞきに来ます。ふと顔をあげると、蓋を開けて中身を確認していたり、ぺろっとつまみ食いをしています。まわりは見て見ぬふり、ほとんどのことは今さらです。皮むきなどはそれとなく渡すとやってくれることがあります。断られることもあります。食べ物のある場所が好きなのです。わたしと同じです。

おとなの文化祭

R0013605.JPG
植田浩平(左)小林佑生(右)打ち合わせの二人。いい写真


 「天久保4丁目」の交差点の脇に、「岡田不動産」の看板が大きく見えます。見かけからして古そうな建物です。そこは星谷ビルと呼ばれています。営業していない時間には、去年までと同じ風景に見えるかもしれません。でも変わったのです。シャッター通りだったのはかつてのこと。時間をずらすか、よく目をこらすと、一階すべてのテナントにはお店が並んでいます。今年のおめでたです。ばんざいつくばの街角です。

 11月3日(日)は星谷ビルの文化祭を開催します。
 5つの会場、それぞれでお楽しみを用意しています。11時から
 
・千年一日珈琲焙煎所
  「小春丸「花を盛る」教室小春丸 11:00- / 13:00-

  「お暇があったらふらりと似顔絵 natunatuna」11:00-15:00

  「からだが喜ぶ無添加のおやつ/オリジナル家具や小物など :ReMT」11:00- 17:00 

  「けん玉大会 〜けん玉をもってまちへ出よう〜」15:30-(参加費500円ドリンク付)
    お子さんからおとなまで、へたっぴから上手までの大会。ルールはこちら
    けん玉のすごい人、畑中卓さんのエキシビジョンあり。見学だけでも大歓迎。

Brasserie&Bar Finlaggan
「新店舗お披露目! ベアードビールと極上ワイン、美味しいカレーでお迎えします!」11:00-22:00

お酒とごはん わかたろう
「お酒と鶏からエトセトラ・2」11:00-22:00

manufact jam
「ご飯の道具展」11:00-22:00

PEOPLE
「『ダンスについて』について 〜染谷拓郎弾き語り〜」13:00-14:00
「香港バー 〜魅惑の香港音楽をレコードで聴こう〜」14:00-15:00
「音の大陸 〜森俊二×曽我大穂〜」18:00開場 19:00開演 予約¥2000/当日¥2300

201306231628000.jpg
染谷くん@kichen Soya

 おおつぼさんがよく聴いている染谷くんの弾き語り。自然体でちょっと変っていうのかな。聴いてて、次、“ぱやぱや” が来る、ってとき、わたしもつい反射的に息を吸って口ずさみそうになる。入場無料なのでぜひ。こいけくんが試聴で聴かせてくれた香港のレコードの音は、新鮮だった。こんな音の触感があるんだ、って聴き入った。聴かせてくれるこいけくんは、こだわりに対しては引けをとらない腰の低い青年で、今回お話もされるそうです。夜のライブ、曽我大穂さんは前回の黄昏バーでも演奏してくれて、はじめて聴いた人たちはかっこよくてびっくりしてた。

20131027_203173.jpg

 小林佑生くんが今回も黄昏バーのDMを作ってくれました。小林くんは千年一日珈琲焙煎所の大工仕事を手伝ってくれて、わかたろうのロゴ・看板作製もしています。おばあちゃん、おじいちゃんっ子のにおいがする人柄で、わたしは小林くんの温度のやわらかさがいいなと思っています。

 星谷ビル/茨城県つくば市天久保3-21-3
     駐車場に限りがあるので、散歩やサイクリングがてらがおすすめです。
     ・つくば駅からのレンタサイクル
     ・公共交通機関