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千年一日珈琲焙煎所は茨城県つくば市にあります。自家焙煎の珈琲豆と喫茶、けん玉、本。ときどき展示、ライブ、フィーリングカップル。生活と街角の風景。

〒305-0005 つくば市天久保3-21-3 星谷ビルF・G(行き方)tel 029-875-5092
火・水曜定休 11:00-19:00(sun18:00)

山口洋佑 個展「かつてのはなし」

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「かつてのはなし」
夜空を見上げたとき、わたしたちの目にうつるひかりの背後には
宇宙から地球に届くまでの暗闇のじかんが潜んでいる。
山口洋佑さんの絵の、星の瞬きは語りもせずささやきもしない。
わたしがいてもいなくてもなんの影響も及ぼさない世界があることは
安らかなことだ。
身を委ねてしまいたいと思う。
わたしがいてもいなくても存在してきたそのものに。

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わたしが強く印象に刻まれた絵はPEOPLEにあって
ピアノマンブルーの絵とわたしは呼んでいます。

こんな恥ずかしさ

昨日「ブレヒトとロルカ」というタイトルの出来事がありました。
コントラバス・ギター・映像のコンサート(河崎純・小沢あき・三行英登さん)と
その後半にわたしやおおつぼさんらで参加したワークショップ発表の舞台がありました。

わたしはブレヒトやロルカについての知識はなく、河崎さんのワークショップはおもしろそうだから、という理由で参加しました。音と声と言葉、3つのシーンを用意してくれました。わたしは朗読のシーンが尾を引きました。練習のとき河崎さんに、この箇所はあえて普段のしゃべり方と全く違う読み方をしてください、と言われ、そうかーと思い、本番でもやってみました。つっかえたりどもったりしながらひたすらその場を進みました。

終わってから、もぞもぞしたものが湧いてきました。
「見られる」という目をとおして、この舞台であらわれた自分の現実(力が入っていたり、どもったり、あやふや言ったり)とそれに対する自意識が恥ずかしかったです。かっこ悪い自分が出たときはカットして、まるでそんなものございませんでした、と記憶の編集をしたくなる自分を見つけて恥ずかしかったです。

6月23日の近況

近況報告です。

その1
茶トラの子猫5匹はそれぞれ里親が見つかりました。黒猫くろちゃんは千年一日のメンバーになります。お別れはさみしいですが、新しいおうちにすでになじんでいる子猫の写真を見るとよかったなと思います。飼い主さん、子猫ちゃん、ありがとう。

その2
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6.24(火)〜 7.06(日)山口洋佑 個展「かつてのはなし」が開催されます。
千年一日珈琲焙煎所PEOPLEが会場です。会期中はお休みなしでやっています。
“there were times you were here”

その3
「かつてのはなし」で言うと、わたしはこの日記のようなものを続けて何年かになるのですが、最近、過去の自分が書いたものを読みました。自分とよく似た他人が書いたものみたいです。ときどき感心します。ときどき意味がわからんと思います。

飾り気のない言葉で

こんなじぶんであることで
もうしわけない と頭をさげるひとは
ひととつながりたいと切実に願っているだけに
誤解されることをしてしまっては
思わぬさみしさに耐えてきたのだとおもう。

ひとのせいにできない じぶんの哀しみを知っているひとはやさしい

飾り気のない言葉で
こころそのままをさらけだして
急所まで丸見えや、という姿で現われたとき
瞬間的に抱き寄せたくなる。

率直さに開かれた時間を分かち合えた分、友だちになれる気がする。
本人にとってのもうしわけなくどうしようもない事態を
わたしはなんでか笑って聞いていることがほとんどで
不謹慎だという思いもよぎるんだけど
かなしいような愛しいようなときそうなってしまう。なんだろね。

お手上げと幸福

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これは手に負えそうもない、とお手上げの事態はやってくる。ほとんど逃げ出したい気持ちになる。

そういう事態にわたしは好まずとも遭遇したとき、わたしの出方は2パターンある。

ひとつは、自分の力でまだ何とかできると思いたくて、あきらめきれずに力むパターン。どうしよう、と無秩序の発火が起こってぐるぐる動きまわってしまう。

ふたつめは、
このごろは大体なんていうか、力むエネルギーがないというか、すぐ抜かれてしまう。
虚を漂う時間が過ぎて我にかえると、もうどうでもいいわ、と思う。
「もうどうでもいいドア」が開かれる瞬間。

わたしの頭に乗る猫、足の指を噛む猫、肩によじ登る猫、服をひっぱる猫、あちこちでけんかして、おしっこもらして、うんちして、倒す音、散らかす紙。猫7匹の存在感。

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じゃれゲンカ

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お母さんのしっぽもおもちゃ

幸福というのはときどきどうしようもないところで感じるもので、わたしは一体これを求めていたのだろうかと狐にでもつままれたように思う。混沌にまみえるなか、わたしは完全に敗北し、自失しているのに、そんなわたしがいても(いなくても)、あたりでいのちが跳ねまわる色とりどりの事態。

わたしは手に負えなくて困っていたはずなのに、いつのまにか幸福みたいな気がしてきて、よくわからなくなる。手に負えない困惑ともたらされる幸福感、自分のなかで区別がつかなくなっていてどうしよと思う。わたしは、自分の手に負えなくなる出来事を心のどこかで求めとると認めないかんのやろか。この種の幸福のために。

それはちょっと困る、と言いたい、自分に。

宝のじかん

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ふとんの上で瞑想しとると、すーーとふすまが開きます。
わたしの様子をうかがいのぞくばあちゃんの気配。
目を開けて目を合わすと「おまえは、ただすわっとるんやね。」と言って
すーーとふすまを閉めて自分の部屋に帰っていきます。

きょうは退屈しとったのか、何度もやってきました。
こつ、こつ、と杖の音がして、すーーと顔がのぞきます。
そのたびコメントを残して帰ります。

「やっぱりすわっとるね。」
「まさかと思たけど、すわっとるね。」
「ごぼさんみたいやね。いいことや。」
「あんじゅさんみたいにね、おばばもちょっとすわろかな。」

ごぼさんというのはお坊さんで、あんじゅさんは尼さんのことです。
わたしのとなりに座ったかと思ったら、ごろんと横になって
「あんじゅさんみたいに 寝さしてたいね。」と言いました。
わたしのふとんでばあちゃんは目を閉じました。

ばあちゃんとごろごろしとるこんな時間がおもしろいです。
無為な時間ばかりがわたしの宝になっていきます。

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放課後のわたしたちは無敵だった

 金沢では毎年恒例の百万石まつり。

 昨夜は前夜祭にあたる、ちょうちん行列があり、小学生がはっぴ着て、ちょうちんぶら下げて街をねり歩く行事がありました。小学生のころのいい思い出で、わたしは心のなかで、もう一度ろうそくを灯したちょうちんを持って歩きたいと思っていました。

 小学生かその親やったら出れるんやけど、自分の子はおらんし、町内会の列にどうやったら参加できるかなーと様子を見に行ったら、ちょうど保育園のときから幼なじみのゆきえちゃんがおって、うまいこと列に入りこむことができました。ゆきえちゃんの子に「たまにちょうちん持たせてね」と頼みました。ちょうちんは落としてドブを流れていくものがあったり、火がついて燃えてしまったり、ほんとうの火を持って歩くのでちょっとどきどきするものです。他の子のちょうちんが燃えとるのを見て、緊張感に耐えられなくなった子が、持って、と渡してくるのでわたしはすぐに両手にちょうちんになりました。

 暗闇を灯しながら、小学生としゃべっとって思ったのは、自分があたま使わず反射的にこたえとるなーということと、ふっとこころもとなくなる瞬間があるということです。こころもとなさはその子のものか自分のものか区別つかんかったけど、確かに知っとるものでした。

 親になった同級生としゃべりながら、自分はなんの隠しだてもないあけすけなしゃべり方をしとるなーと思いました。卒業してからの進路や今何しとるかについて話しとるとき、卒業からこっちの人生がまるでフィクションのような、とっくの昔の出来事を話しとるような気がしました。そのときだけ、ぽーんとすべてから切り離されたみたいでした。

 放課後のわたしたちと再会して、無敵になった夜でした。

衣替えしました。

金沢もここ数日、夏のような陽気です。
年をとると着ぶくれる傾向があるみたいで、本人はけろっとしてますが、さすがに目に暑くて、ばあちゃんを夏服に衣替えしました。

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Before


After

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朝会ったら、ベストを着てた。夜中にタンスから出して着たらしい。


 この家にばあちゃんが引っ越してきたとき、お医者さんの話から推測するに、夏服はもういらんかなと段ボールにいれたままにしてありました。昨日、ばあちゃんの夏服をタンスにしまいながら、生きとったなと思いました。「(ほんまに)しぬがかね?」と本人としても首をかしげます。パンが大好物です。